「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。(Jordy MeowによるPixabayからの画像)

あなたは、「黒い羽根運動」を知っていらっしゃいますか?「黒い羽根運動」は「赤い羽根」にちなんで「石炭を象徴する黒い羽根」をシンボルとする炭鉱離職者への助け合い運動です。石炭産業が政府から見放された時、最初に犠牲となったのは女性と子どもたち。その窮状に手を差し伸べたのが、福岡の主婦の提案で生まれたこの運動です。コロナ第2波で女性と子どもの自殺が増えている今だからこそ、ご紹介します

石炭は江戸時代には「燃える石」と呼ばれ、お百姓さんが偶然発見した記録が筑後国三池郡(福岡県大牟田市)に残っています。日本では薪の代替として、塩を生産する塩田等で使われていた「燃える石」は、イギリスのワットの蒸気機関の改良により船や鉄道の燃料として需要が増大。幕末に開国した日本にも蒸気船や蒸気機関車が輸入され、寄港する外国船からの需要も高まりました。

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。(Jackie RamirezによるPixabayからの画像)

そこで、文明開化の進展とともに石炭の生産も九州の筑豊(現在の福岡県飯塚市・直方市・田川市にまたがる地域)、三池(福岡県大牟田市東部・みやま市)、長崎(長崎半島の西方約5kmの海上に浮かぶ高島・中ノ島・端島)、本州の宇部(山口県宇部市)、常磐(福島県双葉郡富岡町から茨城県日立市にまたがる地域)、北海道の白糠(白糠郡白糠町)、茅沼(北海道古宇郡泊村大字茅沼村)、幌内(北海道三笠市)、夕張(北海道夕張市)等の地域で石炭鉱山の開発が始まり、拡大していきます。

これは、国内の石炭生産総量の推移です。

1874(明治7)年      21万t

1883(明治16)年    100万t

1888(明治21)年      200万t

1902(明治35)年   1,000万t

1910(明治43)年   1,570万t(石炭産業に従事する労働者も増加し、明治末期には15万人)

1937(昭和12)年   4,530万t(日中戦争開始以降は石炭需要が急増)

1939(昭和14)年   5,110万t

1941(昭和16)年   5,647万t(太平洋戦争に突入・日本の産炭史上での最大生産量)

1945(昭和20)年   2,230万t(敗戦による炭鉱等の損傷・人命の損失)

1948(昭和23)年   3,480万t(戦後復興の重要政策として、石炭・鉄鋼の増産に集中)

1951(昭和26)年   4,650万t(戦後最高生産量に達し、翌年から減少)

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。(tomo*による写真ACからの画像)

殖産興業のため石炭鉱山開発が盛んに行われ、明治の中頃から採炭等の技術は人力から蒸気に移り、排水・運搬等の機械化が進展日清(1894-95年)、日露(1904-05年)両戦争を経て急速に発展し、主要炭鉱ではポンプや巻上機が設置され、大きな煙突がそびえるようになりました。

しかし、当時の鉱山は利益優先で、労働環境は二の次であったため安全対策は劣悪な場合が多く、特にガス爆発や粉塵爆発が発生しやすい炭鉱においては、しばしば大規模な事故が発生しています。

第一次世界大戦後の世界経済恐慌のあおりを受けて,日本の石炭産業も不況の波に見舞われました。石炭需要は激減し,石炭価格は急激に下落。休山する炭鉱数や炭鉱失業者数も増加。その後昭和に入り、重化学工業を中心とする軍需産業、海運業、電力業界などが活況を取り戻し、石炭産業の発展が続きます。

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。(hangelaによるPixabayからの画像)

第二次世界大戦敗戦後は、戦後復興の重要政策として、石炭・鉄鋼の増産に集中する「傾斜生産方式」が実施され、石炭生産量は、1951(昭和26)年に4,650万tまで回復しました。ところが激しいインフレを収束させるため、連合国軍の占領下にあった日本はGHQの指示に従い、ドッジ・ラインと呼ばれたデフレ政策を推進させます。これは合理化政策の名目のもと、実は賃金カットと労働者の大量解雇でした。

吉田茂内閣は、ドッジ・ライン断行で起きる失業問題に対し、1949(昭和24) 年2月に全産業の失業者数を188 万人と推定し対策原案を閣議決定しています。ところが、1949 年度予算編成で公共事業費と失業対策費を大幅に削減。6月24 日の閣議で、吉田首相は「失業者は主として見返資金の運用などにより生産増大で吸収するとの方針」と失業対策を行わないことを表明。議会で、炭鉱合理化による失業者の大量発生について野党が追及しても、吉田内閣は逃げ続けました。

同時に、安価な外国炭の輸入増加、水力発電量の復活、石油への転換などの諸条件も重なり、国内石炭の需要減少が加速します。石炭の質が悪い炭鉱や、機械化の資金がない中小炭鉱は政府から切り捨てられ、疲弊し、潰れていきます。

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。(新庄デジタルアーカイブより、子守奉公)

今も昔も、最初の犠牲者は女性と子どもです

1953(昭和28)年8月、福岡県遠賀郡香月町のある業者が石炭業界の不況で事業がうまく行かなくなり、20 歳と15 歳の娘を田川市内の「特殊飲食店」に売ったとして摘発されています。(『時事新聞』1953 年8月8日)炭鉱の給料遅配や無配、あるいは廃山となった炭鉱夫の家庭では苦しい家計を助けるため、子どもたちが子守や女中やでつち奉公に出なければならず、学校を長期欠席する子どもも増加しました。

福岡県教育庁嘉穂出張所のまとめでは、1954(昭和29) 年2月の嘉穂郡下の小中学校の長期欠席者は小学校で560 名、中学校で727 名を数え、同年1月末の長期欠席者に比べ著しい増加。特に、長期欠席者の90%を炭鉱地帯の学校が占めています。(『毎日新聞』筑豊版、1954 年2月16 日)

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。(筑豊のこどもたち、公益財団法人 土門拳記念館)

田川児童相談所では1954(昭和29)年4月に、生活難から母親が身売りした上、父親には逃げられた子ども13 名を収容。そのほとんどが炭鉱労働者の子どもでした。(『朝日新聞』筑豊版、1954 年4月25 日)

1954(昭和29)年10 月の嘉穂郡碓井町のある炭鉱住宅街では、500 世帯のうちで「特殊飲食店」やそれに近い「アイマイ屋」に身を沈めた女は、ここ一年ばかりの間に40~50名に上っていると報じられています。(『西日本新聞』筑豊版、1954 年10 月4日)

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「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。(Jordy MeowによるPixabayからの画像)

1959(昭和34)年4 月、福岡県で鵜崎多一氏が県知事に就任。吉田内閣が失業者数を188万人と推定した対策原案の閣議決定から10年、やっと事態は動きます。

鵜崎知事は、福岡県政研究会に炭鉱離職者の調査を依頼し,7 月に同研究会は『炭鉱離職者の生活実態』という報告書を発表。

1959(昭和34)年8 月10 日、第1 回福岡県母親大会が開催。討議の中で『炭鉱離職者の生活実態』がとりあげられ、福岡在住の主婦今吉まさえさんが「石炭不況による離職者の非人間的生活に対して何らかの救いの手を差しのべよう」と「炭鉱離職者助け合い運動」を提案し、採択されます。

8 月22 日、鵜崎知事は田川市長らと連名で「黒い羽根運動」を呼びかけます。

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。(Ольга КонстантиноваによるPixabayからの画像)

9 月10日、福岡商工会議所において「黒い羽根運動本部」結成大会を開催。結成大会は、約150人の参加者により要綱や規約を採択し、県内はじめ全国に向けての募金運動を開始します。

1 人5 円から10 円を目標に県民に募金を呼びかけ,目標募金額は4千万円。募金の使いみちは学校給食の復活、無灯火地区への電灯線架設、共同浴場の建設、生活資金の無利息貸付等を計画し、あわせて中古衣料や食糧なども広範囲に集め,炭鉱失業者の家庭に贈る計画です。

「黒い羽根運動」は、1959(昭和34)年9 月10 日から1960(昭和35)年4 月30 日までの間,募金および救援物資を募る運動を展開。その結果集まった募金は約3,700万円,救援物資は金銭換算で約5,250万円相当で、目標額の4,000万円を大きく上回りました。

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。(ユニセフの歴史より、ララ物資)

また、失業者世帯の子どもたちの様子がテレビなどのマスメディアに取り上げられると、全国各地から食糧や学用品が届いただけでなく、子どもたちへの励ましの手紙が殺到したとも言われています。

1959(昭和34)年12月、「黒い羽根運動」による国民の視線の集中と地方自治体や労働組合の政策を求める世論を受け、ようやく炭鉱離職者臨時措置法が誕生します。

この「黒い羽根運動」の紹介を通して申し上げたいことは、これです。

今度こそ女性や子どもが犠牲になるのは止めよう!

無能な政府の犠牲になるのは拒否しよう!

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。

「黒い羽根運動」をご存じですか?失業の嵐に襲われた時、失業家庭救済のために始まった運動です。(新庄デジタルアーカイブより、子守学級)

《参照》 以下の論文とホームページを参考にさせて頂きました。有難うございます。

☆「黒い羽根運動」の意義に関する考察ー エネルギー政策転換期における社会福祉の実態を通してー https://core.ac.uk/download/pdf/268278761.pdf

☆炭鉱合理化政策の開始と失業問題 https://www.keiwa-c.ac.jp/wp-content/uploads/2015/05/nenpo13-2.pdf

☆炭鉱合理化政策の開始と失業問題(続)https://www.keiwa-c.ac.jp/wp-content/uploads/2016/07/nenpo14-3.pdf

☆日本の炭鉱の歴史 - 一般財団法人石炭エネルギーセンター http://www.jcoal.or.jp/worldheritage/03/05/

☆新庄デジタルアーカイブ(子守奉公と子守学級の写真) https://www.shinjo-archive.jp/

以上 

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