分かりやすい!5世紀から2001年まで、日本の伝統医学「漢方」の歴史をざっくり紹介!(1/2)

5世紀から2001年まで、日本の伝統医学「漢方」の歴史をざっくり紹介!(1/2)

分かりやすい!5世紀から2001年まで、日本の伝統医学「漢方」の歴史をざっくり紹介!(1/2)(quillauによるPixabayからの画像)

今回(12/1)と次回(12/8)の2回にわたって「漢方医学」の歴史を簡単に紹介します。拉麺が和食に変身したように、中国から伝わった医学が日本独自の「漢方医学」に変貌するまでをざっくりまとめました。もっと詳しく知りたい方は下の補注や参考資料もご覧ください。

1.中国から伝わった医学を中国語で学び始める飛鳥時代

日本の医学は、5~6世紀頃から当時の中国医学を学ぶことから始まります。

日本を統一した大和朝廷は、4世紀頃から朝鮮半島に進出し、朝鮮半島経由で中国文化を積極的に導します。稲作、甲冑、武器、農具、工具、文字(漢字)、仏教、儒教など。縄文・弥生時代が終わり、古墳が盛んに造られた時代です。

そして6世紀半ば、朝鮮半島の百済(*1)から仏教が正式に伝わり日本は百済に医学博士の派遣と医薬品を求めます。やがて直接中国へ特使を派遣できるようになり、日本と中国の正式交流が始まります。

奈良時代には国を治める法律の体系が定められ、医薬に関する制度も定められます。天皇の医療を担当する「内薬司(ないやくし)」と宮廷官人への医療、医療関係者の養成および薬園等の管理を行う典薬寮(てんやくりょう)」が設置され、医学教育に使う教科書も当時の中国、唐の法令が指定するものと同水準の書物でした。初めて学ぶ中国語で初めての学問、医学を理解できるのは、当時のスーパーエリートです。

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2.中国医学を日本風に真似し始める平安時代

中国との交流事業が廃止され、平安時代に入ると日本文化確立の機運が高まります。「漢字」を崩して、日本独自の文字「かな」が生まれたように医学でも、中国医書を参考に日本人による医薬書の編纂が行われるようになります。

平安時代中期、宮廷の医師が全30巻の大医学全書を編纂して朝廷に献上します。内容は、漢(*4)・六朝(*5)・隋・唐の医薬文献を抜粋して集めたものですが、編集方法に日本らしさがあります。それは陰陽五行説(*6)など観念論や論理的な部分は適当に削除して減らし、より実用的な医薬書となっていた点です。

中国では唐の時代に書物の印刷が始まり、次の宋(*7)の時代になると印刷技術が発展。手書きしかなかった書物が印刷され、多種多量の医学書が出版されます。

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3.医療が貴族から一般庶民へと広がり、和風化が始まる鎌倉時代

鎌倉幕府が開かれると、宋で出版されていた医薬書が次々と輸入されます。武家政権の下、医学は貴族社会の宮廷医師たちに代わり、高度な医学知識を学んだ僧医(*8)たちが最新医学を担います。仏教の修行とともに医療の知識や技術を学んだ僧医が、薬草などを処方して庶民への治療も始まりました

例えば僧、栄西は、宋留学から帰国時に茶の種を持ち帰り、日本での茶の栽培を開始。とても効果の高い薬、仙薬として「茶」と「桑」を武士や庶民に広めます
書籍でも中国語でかかれた専門医学書が日本語に翻訳され、さらに著者自身の見解が付け加えられた日本独自の医学書も出現。中国医学が日本の「漢方医学」へと変化し始めます。

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4.室町時代には初めて医学書が手書きから印刷出版へ

室町時代には、中国で明王朝(*9)が成立。明の医学は、前代の金王朝および元王朝時代に生まれた革新的な医学理論を継承・発展させ、新たな知見を加えた医薬書を多数生みだしました。日本の僧医や宮廷医たちは続々と明に留学し、明の医学を持ち帰り、自分の一門や派閥内で最新医学の普及に努めます。

知識階級の積極的なブームにのって、室町時代後期、初めて医学書が印刷出版されます。刊行者は、堺の豪商で、医師ではありませんでしたが医に通じていました。彼は私財を投じて明の全10冊におよぶ医書を、木版に彫刻し、出版刊行。これまで手で書き写すしかなかった書物が、印刷技術により同時に多数の本が作れるようになります。この技術革新により医薬書は、数百倍の影響力を獲得します

さらに8年後、越前の一乗谷(*10)の僧が2番目に古い医書を出版印刷します。彼は明に留学し、医学を学びました。越前国を支配する戦国大名朝倉氏の招きで一乗谷に移住し、朝倉氏に仕えます。朝倉氏の命令を受けた彼は、明王朝時代に注釈が加えられた鍼と臨床について書かれた医書に、文字や語句の誤りやいろいろな伝本と比べ合わせて本文を訂した医学書を印刷出版しました

明との貿易で栄えていた堺だけではなく、地方都市の越前でも最新医学や印刷技術が広まっていました

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5.活字版による医学書出版と亡命中国人医師たちの影響を受ける戦国時代

戦国時代には、豊臣秀吉の朝鮮侵略が、出版印刷にさらなる技術革新をもたらします。
堺の豪商から始まった整版印刷は、一枚の板に一頁分の文章を彫刻します。これに対し活字印刷は、一字一字の活字を木や金属などで作り、それらの字型を組み合わせて版面を作って印刷します。

当時の朝鮮では、活字印刷技術がこれを発明した中国の水準を超えて発達していました。6年にも渡る朝鮮侵略の時、武将たちは多数の書籍と一緒に現地の活字印刷機具を戦利品として持ち帰ります。この印刷機具により、整版印刷よりも簡単で便利な活字印刷が一気に発達。刊行書籍も急増します。

中国では明王朝が滅び、清王朝が成立。戦乱を避け、あるいは満州族の支配を逃れる上流階級が日本に亡命しました。その中には医療関係者も多く、日本の医学に大きな影響を及ぼします。

さらに鎌倉幕府や室町幕府に保護された京都五山・鎌倉五山(*11)の僧たちの交流により明の医学が知識階級に浸透し、日本の伝統医学「漢方」が開花する土壌がこの時代に作られました。

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次回(12/8)の内容

6.鎖国と庶民文化が中国医学を日本独自の「漢方」へ発展させた江戸時代中期

7.最新医学「蘭方」が日本の伝統医学「漢方」に影響を与える江戸時代後期

8.西洋化を焦る明治政府による「漢方医学」禁止と100年後の復活

9.重大な薬害事件や「3分診療」の現代医療が、全身のバランスを診察する「漢方医学」を求める2000年代

拉麺やカレーが和食になり、パンから日本独自のアンパンが生み出されたように、「漢方医学」は日本で独自に発展し、治療体系を備えた「Japanese Kampo」です。江戸時代にやっと日本独自の「漢方医学」に成長する次回(12/8)をどうぞお楽しみに!

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補注

*1:「百済(くだら):(4世紀前半? – 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。当時の朝鮮半島には、百済の他に、北部から満州地方にかけて高句麗が、南東部に新羅が、南部には伽耶諸国がそれぞれ存在しており、朝鮮史の時代区分では三国時代と呼ばれている。」ウィキペディア フリー百科事典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88

*2:「揚州:隋(ずい)代に揚州と改名、交通の要地として成長、離宮もあった。唐もこれを受け、東アジアやアラブとの海上交通が揚州を拠点とし、また北送する江南の米、塩などの集結地となって栄え、「揚一益二」つまり四川(しせん)(益州(えきしゅう))の成都(せいと)と並ぶ華中の大都会となった。日本に布教した律宗の僧鑑真は近くの大明寺に居住していた。」日本大百科全書(ニッポニカ) https://japanknowledge.com/contents/nipponica/sample_koumoku.html?entryid=229

*3:「正倉院について:8世紀の中頃、奈良時代の天平勝宝八歳(756)6月21日、聖武天皇の七七忌の忌当日あたり、光明皇后は天皇の御冥福を祈念して、御遺愛品など六百数十点と薬物六十種を東大寺の本尊盧舎那仏(大仏)に奉献されました。皇后の奉献は前後五回におよび、その品々は同寺の正倉(現在の正倉院宝庫)そして、大仏開眼会をはじめ東大寺の重要な法会に用いられた仏具などの品々や、これより200年唯一後の平安時代中頃の天暦4年(950)に、東大寺羂索院の倉庫から正倉に移されたもの類の罪とか、光明皇后奉献の品を併せて、厳重に保管されることとなったのです。正倉院宝物は,このようにいくつかの系統より抜粋しています。」宮内庁 正倉院 https://shosoin.kunaicho.go.jp/about/history

*4:「資料:(かん)は、建国の祖(高祖)劉邦が紀元前202年に皇帝の位についてから、第7代武帝の時代に最盛期を迎え、紀元後5年に外戚である王奔に政権を奪われるまでを「前漢」と呼び、 光武帝が再興し、220年に魏によって滅ぼされるまでを「後漢」と呼んでいる。」大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館 よみがえる漢王朝2000年の時をこえて https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/990622/index.html

*5:「六朝(りくちょう)は、中国史上で建康(建業)、現在の南京市に都をおいた、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称。

呉の滅亡(280年)から東晋の成立(317年)までの時代を含め、この時代(222年 – 589年)を六朝時代(りくちょうじだい)とも呼び、この時期の文化を特に六朝文化(りくちょうぶんか)と称することもある。」ウィキペディア フリー百科事典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9C%9D

*6:「陰陽五行思想(いんようごぎょうしそう)は、中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽説と五行説、それぞれ無関係に生まれた考え方が後に結合した思想。陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)、陰陽五行論(いんようごぎょうろん)ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされるようになった。 陰陽道などにおいては、占術などに用いられる事もあった。」ウィキペディア フリー百科事典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3

*7:「(そう)/北宋:中国の王朝。960年に趙匡胤が建国し、五代の争乱を終わらせ979年に中国統一。文治主義を取り、官僚制を整備して皇帝専制政治体制を作り上げたが、北方の遼・金との緊張関係は続き、軍事費が増大した結果、財政難に陥り、11世紀後半に王安石が改革にあたった。1127年、金軍に首都開封を占領されて滅亡し、その一族が江南に移り南宋を建てる。それまでの北宋とこの南宋を通じ、商工業の発達、朱子学の成立などの中国文化の展開がみられた。」世界史の窓 世界史用語解説 授業と学習のヒント https://www.y-history.net/appendix/wh0303-032.html

*8:「鎌倉時代の仏教医学:鎌倉時代に入ると医療の専門知識を持つ僧医が多く出現し、貴族から庶民まで幅広く医療に関わるようになったのでした。」医療あれこれ 医療の歴史(63) 内科末廣医院 https://www.suehiro-iin.com/arekore/history/63.html

*9:「(みん):1368年、朱元璋が建国した漢民族の王朝。靖難の役で実権を握り、1402年に皇帝となった永楽帝の時代、都を南京から北京に遷し、紫禁城を造営し、全盛期となる。皇帝専制体制を作り上げ、経済も発展し、漢民族の文化が隆盛期を迎え、広大な朝貢世界を支配した。15世紀後半からモンゴル人の侵攻を受け、16世紀には北虜南倭に苦しみ、次第に衰退。17世紀には北東から清の侵攻を受け、1644年に李自成の反乱によって滅亡する。」世界史の窓 世界史用語解説 授業と学習のヒントhttps://www.y-history.net/appendix/wh0801-004.html

*10:「特別史跡 一乗谷(いちじょうだに)朝倉氏(あさくらし)遺跡:朝倉孝景の代、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠地を移し、斯波氏、甲斐(かい)氏を追放して越前国(えちぜんのくに)を平定しました。以後孝景(たかかげ)、氏景(うじかげ)、貞景(さだかげ)、孝景(たかかげ)、義景(よしかげ)と5代103年間にわたって越前国の中心として繁栄し、この間、京都や奈良の貴族・僧侶などの文化人が訪れ、北陸の小京都とも呼ばれました。しかし天下統一の戦いの中で1573年織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼き尽くされました。」福井市文化遺産ホームページ  http://fukuisan.jp/ja/asakura/

*11:「京都五山:京都五山(きょうとござん)とは、臨済宗の寺院の寺格で、別格とされる南禅寺とともに定められた京都にある五つの禅宗の寺院。鎌倉時代末期に創設されたが、その内訳が確定したのは室町時代、足利義満の代になってからである。」ウィキペディア フリー百科事典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%BA%94%E5%B1%B1

*12:「本草(ほんぞう):わが国の漢方医学を含め、中国伝統医学は「本草」と呼ばれる分野において、薬物に関するさまざまな知識を集積してきた。」東洋医学の基礎知識-本草 真柳誠 / 東洋医学総合研究所 https://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper04/honzo.html

*13:「ワクチンの誕生と発展:18世紀のヨーロッパでは、「牛痘にかかると天然痘にかからない」という民間伝承がありました。それに注目したジェンナーは、人体実験を繰り返して、牛痘患者の疱疹の漿液を傷口に塗りつける牛痘種痘法を確立しました。」予防接種にまつわる歴史(1) DOCTORASE 医学生がこれからの医療を考えるための情報誌 https://www.med.or.jp/doctor-ase/vol40/40page_id03main2.html

*14:「蘭学塾(らんがくじゅく): 江戸時代に西洋の学問を学ぶために私塾として広まった学問所。ヨーロッパの学問(蘭学)を初期は主に西洋医学と天文学、後に化学、物理学、西洋建築学等を学ぶ場所として使われ、その後の日本の近代化に大きな役割を果たした。」ウィキペディア フリー百科事典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E5%AD%A6%E5%A1%BE

*15: 『新版 漢方の歴史―中国・日本の伝統医学』2014年発行、小曽戸洋(こそと・ひろし)著、大修館書店、定価1,700円+税、ISBN978-4-469-23316-2 https://www.taishukan.co.jp/book/b197997.html

*16:「長崎養生所:1861年(文久元年)9月に長崎で開院した江戸幕府(長崎奉行管轄)の病院・医療施設である。正式名称は「養生所」。養生所は日本最初の西洋式近代病院として知られる。幕府に招聘され医学教育を行ったオランダ人医師ポンペの進言により設置され、所内には医学生の教育を行う「医学所」が併設された。のち両者は「精得館」として統合された。明治期になって長崎府医学校病院と改称され、長崎医科大学(現 長崎大学医学部、および長崎大学病院)の源流となった。」ウィキペディア フリー百科事典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E9%A4%8A%E7%94%9F%E6%89%80

*17:「横浜軍陣病院:ウィリスは新政府から要請を受けて、横浜の軍陣病院で戊辰戦争傷病兵の治療に当たることになった。新政府東海道総督府は、1868年6月(慶応4年閏4月)野毛町の旧漢文学校修文館(今の老松中学の地)に横浜軍陣病院を開いた。」ウィリアム・ウィリス―幕末・明治に多くの日本人を治療した英国人医師 ― Part 2 横浜歴史さろん https://yokohamasalon.link/willis2/

*18:「漢方医学の教育については、2001年3月に文部科学省から公表された「医学教育モデル・コア・カリキュラム」の中で初めて『和漢薬を概説できる』という記載がなされ、その後2011年3月には『和漢薬、漢方薬の特徴や使用の現状について概説できる』と改訂され、日本の医学教育における卒業までの到達目標として、漢方に関する知識の習得が示されました。」設立のご挨拶 一般財団法人 日本漢方医学教育振興財団 https://jkme.or.jp/message.html

*19: 「漢方薬処方実態調査(定量)」日本漢方生薬製剤協会、報告書 2011年10月18日、 chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.nikkankyo.org/serv/pdf/jittaichousa2011.pdf

*20:「私と漢方との出会い 伴信太郎」リレーエッセイ 一般財団法人 日本漢方医学教育振興財団 https://jkme.or.jp/relay-ban01.html

参考資料

新版 漢方の歴史―中国・日本の伝統医学』2014年発行、小曽戸洋(こそと・ひろし)著、大修館書店、定価1,700円+税、ISBN978-4-469-23316-2  https://www.taishukan.co.jp/book/b197997.html

漢方医学-同病異治の哲学』2019年発行、渡辺賢治(わたなべ・けんじ)著、講談社、定価960円+税、ISBN978-4-06-516949-0  https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000324291

日本医事史 抄」(この論文は、故 大阪市南医師会顧問 三好勝氏の執筆により、 21回の連載となりました。) https://www.osaka-minami-med.or.jp/ijisi/ijishi01.html

漢方の歴史」 一般社団法人日本東洋医学会 https://www.jsom.or.jp/universally/story/note/02/04.html

漢方とは」 一般社団法人漢方産業化推進研究会 https://kampo-promotion.jp/html/what.html

漢方の歴史」 ツムラ https://www.tsumura.co.jp/kampo/history/index.html

以上

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