分かりやすい!5世紀から2001年まで、日本の伝統医学「漢方」の歴史をざっくり紹介!(2/2)

分かりやすい!5世紀から2001年まで、日本の伝統医学「漢方」の歴史をざっくり紹介!(2/2)

分かりやすい!5世紀から2001年まで、日本の伝統医学「漢方」の歴史をざっくり紹介!(2/2)(Y.H LeeによるPixabayからの画像)

前回(12/1)の続きです。今回は江戸時代に鎖国が完成し、中国医学が日本独自の「漢方医学」に変貌。さらに国の西洋化に焦るあまり「漢方医学」を禁止する明治政府と「漢方」の復活をお話します。詳しく知りたい方は下の補注や参考資料もご覧ください。

前回(12/1)の内容

     1.中国から伝わった医学を中国語で学び始める飛鳥時代

     2.中国医学を日本風に真似し始める平安時代

     3.医療が貴族から一般庶民へと広がり、和風化が始まる鎌倉時代

     4.室町時代には初めて医学書が手書きから印刷出版へ

     5.活字版による医学書出版と亡命中国人医師たちの影響を受ける戦国時代

分かりやすい!5世紀から2001年まで、日本の伝統医学「漢方」の歴史をざっくり紹介!(2/2)

分かりやすい!5世紀から2001年まで、日本の伝統医学「漢方」の歴史をざっくり紹介!(2/2)(kian2018によるPixabayからの画像)

6.鎖国と庶民文化が中国医学を日本独自の「漢方」へ発展させた江戸時代中期

キリシタンの反乱「島原の乱」を鎮圧し終えた江戸幕府は、鎖国を完成させます。徳川政権の基礎がかたまり、やっと訪れた平和を味わい楽しむ元禄時代に庶民文化が開花します。

医学も、鎖国により中国との交流が絶えた影響で中国医学に日本の気候風土や民族性が加わり、日本人に適した医療として独自に発展します。文化的にも日本人が編纂した中国医書の注釈書から一般向けの啓もう医書、養生・鍼灸・本草(*12)・博物学へと広がっていきます。特に本草学は、薬となる草・根・木・皮・動物・鉱物などを研究する学問で漢方薬の発展に大きく寄与します。

例えば全105巻の『和漢三才図絵』は日本初の図や絵が入った百科事典。大阪の高名な医師が編集しました。

また筑前福岡藩の藩医、貝原益軒(かいばら・えきけん)が著した『養生訓(ようじょうくん)』は、一般庶民を対象に彼らでも読みやすい和文で書かれた健康で長生きするための手引書で、江戸時代のベストセラーです。

分かりやすい!5世紀から2001年まで、日本の伝統医学「漢方」の歴史をざっくり紹介!(2/2)

分かりやすい!5世紀から2001年まで、日本の伝統医学「漢方」の歴史をざっくり紹介!(2/2)(DominiqueによるPixabayからの画像)

7.最新医学「蘭方」が日本の伝統医学「漢方」に影響を与える江戸時代後期

16世紀のヨーロッパではルネッサンスの影響で、実証科学が勃興。17世紀には血液とリンパ管を発見し、人体の循環系の実態を解明。18-19世紀に産業革命が起こり、天然痘の牛痘種痘法(*13)が成功します。

キリスト教を禁止し貿易を独占した徳川幕府は、長崎の出島にオランダ商館を設置し、唯一の貿易窓口とします。オランダが伝えるヨーロッパの学問が新時代の学問として脚光を浴びると、蘭学塾(*14)が作られ、オランダ商館の通訳や商館の医師たちがオランダ語や医学等を教えます。

オランダを通じて伝えられたヨーロッパの学問は「蘭学」。ヨーロッパの医学は「蘭方医学(らんぽういがく)」と呼ばれ、中国に源を発する日本の伝統医学を「漢方医学」と呼んで区別するようになります。

玄白の講義に使っていたと思われる解体新書 美濃蘭学の祖 江馬蘭斎 - 岐阜県公式ホームページ(歴史資料館)より

玄白の講義に使っていたと思われる解体新書 美濃蘭学の祖 江馬蘭斎 – 岐阜県公式ホームページ(歴史資料館)より

新進気鋭の「蘭方」に対抗し、漢方医たちも日本独自の「漢方」をさらに磨きます。

明時代の医書に従おうとするグループや、漢の時代の医書に理想を求めるグループ。また、理論よりも臨床を重視するグループや文献資料を吟味して、客観的事実に基づいて真理を究明しようとするグループ。これらのグループが互いに刺激し合いながら、蘭方の知識や博物学も取り込んで発展します。

例えば華岡青洲(はなおか・せいしゅう)は、和歌山県の紀の川中流域に生まれ、父に医学を学びます。さらに京都に上り、漢の時代の医書に医学の理想を求める流派の医学とオランダ流外科を習得帰郷して家業を継ぎ、民間療法も取り入れた和・漢・蘭折衷の医術を実践します。これが麻酔薬「麻沸湯(まふつとう)」を用いた全身麻酔下で、世界初の乳癌摘出手術成功に繋がります。

あるいは江戸幕府のお抱え医師が、当時の駐日フランス公使の重病を漢方薬と鍼治療で好転させています後日、フランス皇帝ナポレオン三世から謝礼の品として、鐘の鳴る時計と絨毯三巻が贈られたそうです。

『当時の西洋医は西洋科学、解剖の知識はあっても、抗生物質、ステロイドといった特効薬はまだなく、治療成績はさほどのものではなかった。外科以外、漢方医の腕は西洋医よりも優れていたのである。』(196~197頁より引用)と小曽戸洋先生は著書(*15)の中で記しています。

黒船来航瓦版 (くろふねらいこうかわらばん) 石川県立歴史博物館 学芸員おすすめの所蔵品500 

黒船来航瓦版 (くろふねらいこうかわらばん) 石川県立歴史博物館 学芸員おすすめの所蔵品500より

8.西洋化を焦る明治政府による「漢方医学」禁止と100年後の復活

黒船や大砲に驚愕した明治新政府は、全てにおいて西洋化を推進します。医学においても、致死率が高かった天然痘の種痘が幕末に伝来し、成功。それまで天然痘や疱瘡(ほうそう)などの伝染病は疫病神(疱瘡神)がもたらすとされ、武将の絵が厄除けのお守りになるだけでした。明治三年、明治政府は種痘を奨励し、明治九年には種痘の強制接種制度を施行します。

明治新政府は戊辰戦争の負傷者治療用に日本初の公立外科病院「横浜軍陣病院」(*17)を開設半年後には旧幕府の江戸医学所に移転させて「東京大病院」とし、のちに東京大学医学部へと発展させます。明治三年、新政府は大阪に軍事病院を設置(*18)。この病院は、兵士の体力検査と外国人教師による軍陣医学の教育、つまり軍医の養成が目的でした。

戊辰戦争、西南戦争と騒乱が相次ぐ明治初期には貫通銃創の手術方法やX線撮影など、負傷兵を治療する軍医と軍陣外科の知識が早急に求められます。築地にたてられた海軍病院に「海軍病院学舎」が増設され、「陸軍軍医学校」では医師免許の有資格者に軍陣衛生をさらに修得させています。(*19)

分かりやすい!5世紀から2001年まで、日本の伝統医学「漢方」の歴史をざっくり紹介!(2/2)

分かりやすい!5世紀から2001年まで、日本の伝統医学「漢方」の歴史をざっくり紹介!(2/2)(TomによるPixabayからの画像)

このように新たに「洋方(ようほう)」と呼ばれた西洋医学が公衆衛生と外科技術で一気に優勢となり、明治七年(1874)、明治政府は漢方医学を事実上禁止西洋医学修得を医師免許の必須条件に定めました。以後漢方医はその代だけで医師資格を失い、漢方医の子弟も西洋医学の試験に合格しなければ医師になれなくなりました。

けれど漢方医学は滅亡せず、極めて少ない医師と民間の医療現場で薬剤師や薬種商(薬種商販売業)によって漢方薬が使い続けられました。1938年東亜医学協会、1950年日本東洋医学会が設立され、1967年には医療用漢方製剤が健康保険の適用対象となります

つまり漢方薬が、国の認める正式な医学的薬に戻りました。明治政府が西洋医学以外を医学と認めず、漢方を廃絶してから約100年後の復活です。

2001年文部科学省は、医学教育のカリキュラムで漢方医学を必須としました(*20)。この政策は、日本の医学には西洋医学に加えて「漢方医学」も必要と判断した結果です。これ以降、すべての大学医学部で漢方医学教育が実施され、漢方臨床実習や学内での教員育成の仕組みを持っている大学が増えています。

サリドマイド事件 世界最大の薬害 日本の場合はどうだったのか

サリドマイド事件 世界最大の薬害 日本の場合はどうだったのか

9.重大な薬害事件や「3分診療」の現代医療が、全身のバランスを診察する「漢方医学」を求める2000年代

2011年の調査(*21)によると、医師の90%近くが漢方薬を処方しています。明治政府に弾圧され、衰退していた漢方医学が復活したきっかけは1970年代の漢方医学ブームです。その理由を北里大学東洋医学総合研究所の大塚恭男先生は以下のように指摘しています。

『 1.現代医薬にはしばしば重篤な副作用が発現し、人体を損なう危険性があること。

  2.現代の臨床医学が過度に分科し、人体の部分しか見なくなったこと。

  3.検査結果のみを重視し、患者の病状の訴えを軽視する傾向にあること。また、医師と患者の人間関係が希薄になったこと。

  4.疫学動態、すなわち現代における疾病の構造が変化してきたこと。』(『新版 漢方の歴史』219-220頁より引用)

ちょうど1960年代初めに鎮静・催眠薬として世界数十か国で販売された「サリドマイド」を妊娠初期に服用すると、胎児の手足や内臓などに奇形を起こすことが見つかりました。日本でも約千人の胎児が被害にあい、薬に対する不安感が醸成されていました。

四診とはこういうもの 私に合う漢方薬の見つけ方 | 漢方ビュー 漢方のポータルサイトより

四診とはこういうもの 私に合う漢方薬の見つけ方 | 漢方ビュー 漢方のポータルサイトより

また、「3分診療」などと批判される現代医療が、動作や歩き方、顔色や表情、皮膚や爪、頭髪、唇、脈や腹部などを観察し、全身のバランスを診察する「漢方」を求め始めます。

1970年代からは大学や公的研究機関に漢方医学の研究・診療部門が相次いで開設され、漢方の科学的研究も行われ、学会において多数発表されるようになります。漢方薬成分の働きが少しずつ解明され、「迷信」や「おまじない」あるいは「プラシーボ(偽薬)効果」や「患者さんの話をよく聞く簡易精神療法」(*22)とみなされていた漢方医学が、エビデンス、効能の証拠を獲得します

拉麺やカレーが和食になり、パンから日本独自のアンパンが生み出されたように、「漢方」は独自に発展させた治療体系を備えた「Japanese Kampo」として認められ、治療データの蓄積が今も続いています。(完)

分かりやすい!5世紀から2001年まで、日本の伝統医学「漢方」の歴史をざっくり紹介!(2/2)

分かりやすい!5世紀から2001年まで、日本の伝統医学「漢方」の歴史をざっくり紹介!(2/2)(vivi14216によるPixabayからの画像)

補注

*1:「百済(くだら):(4世紀前半? – 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。当時の朝鮮半島には、百済の他に、北部から満州地方にかけて高句麗が、南東部に新羅が、南部には伽耶諸国がそれぞれ存在しており、朝鮮史の時代区分では三国時代と呼ばれている。」ウィキペディア フリー百科事典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88

*2:「揚州(ようしゅう):隋(ずい)代に揚州と改名、交通の要地として成長、離宮もあった。唐もこれを受け、東アジアやアラブとの海上交通が揚州を拠点とし、また北送する江南の米、塩などの集結地となって栄え、「揚一益二」つまり四川(しせん)(益州(えきしゅう))の成都(せいと)と並ぶ華中の大都会となった。日本に布教した律宗の僧鑑真は近くの大明寺に居住していた。」日本大百科全書(ニッポニカ) https://japanknowledge.com/contents/nipponica/sample_koumoku.html?entryid=229

*3:「正倉院について:8世紀の中頃、奈良時代の天平勝宝八歳(756)6月21日、聖武天皇の七七忌の忌当日あたり、光明皇后は天皇の御冥福を祈念して、御遺愛品など六百数十点と薬物六十種を東大寺の本尊盧舎那仏(大仏)に奉献されました。皇后の奉献は前後五回におよび、その品々は同寺の正倉(現在の正倉院宝庫)そして、大仏開眼会をはじめ東大寺の重要な法会に用いられた仏具などの品々や、これより200年唯一後の平安時代中頃の天暦4年(950)に、東大寺羂索院の倉庫から正倉に移されたもの類の罪とか、光明皇后奉献の品を併せて、厳重に保管されることとなったのです。正倉院宝物は,このようにいくつかの系統より抜粋しています。」宮内庁 正倉院 https://shosoin.kunaicho.go.jp/about/history

*4:「資料:(かん)は、建国の祖(高祖)劉邦が紀元前202年に皇帝の位についてから、第7代武帝の時代に最盛期を迎え、紀元後5年に外戚である王奔に政権を奪われるまでを「前漢」と呼び、 光武帝が再興し、220年に魏によって滅ぼされるまでを「後漢」と呼んでいる。」大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館 よみがえる漢王朝2000年の時をこえて https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/old/990622/index.html

*5:「六朝(りくちょう)は、中国史上で建康(建業)、現在の南京市に都をおいた、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称。

呉の滅亡(280年)から東晋の成立(317年)までの時代を含め、この時代(222年 – 589年)を六朝時代(りくちょうじだい)とも呼び、この時期の文化を特に六朝文化(りくちょうぶんか)と称することもある。」ウィキペディア フリー百科事典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%9C%9D

*6:「陰陽五行思想(いんようごぎょうしそう)は、中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽説と五行説、それぞれ無関係に生まれた考え方が後に結合した思想。陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)、陰陽五行論(いんようごぎょうろん)ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、より複雑な事象の説明がなされるようになった。 陰陽道などにおいては、占術などに用いられる事もあった。」ウィキペディア フリー百科事典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3

*7:「(そう)/北宋:中国の王朝。960年に趙匡胤が建国し、五代の争乱を終わらせ979年に中国統一。文治主義を取り、官僚制を整備して皇帝専制政治体制を作り上げたが、北方の遼・金との緊張関係は続き、軍事費が増大した結果、財政難に陥り、11世紀後半に王安石が改革にあたった。1127年、金軍に首都開封を占領されて滅亡し、その一族が江南に移り南宋を建てる。それまでの北宋とこの南宋を通じ、商工業の発達、朱子学の成立などの中国文化の展開がみられた。」世界史の窓 世界史用語解説 授業と学習のヒント https://www.y-history.net/appendix/wh0303-032.html

*8:「鎌倉時代の仏教医学:鎌倉時代に入ると医療の専門知識を持つ僧医が多く出現し、貴族から庶民まで幅広く医療に関わるようになったのでした。」医療あれこれ 医療の歴史(63) 内科末廣医院 https://www.suehiro-iin.com/arekore/history/63.html

*9:「(みん):1368年、朱元璋が建国した漢民族の王朝。靖難の役で実権を握り、1402年に皇帝となった永楽帝の時代、都を南京から北京に遷し、紫禁城を造営し、全盛期となる。皇帝専制体制を作り上げ、経済も発展し、漢民族の文化が隆盛期を迎え、広大な朝貢世界を支配した。15世紀後半からモンゴル人の侵攻を受け、16世紀には北虜南倭に苦しみ、次第に衰退。17世紀には北東から清の侵攻を受け、1644年に李自成の反乱によって滅亡する。」世界史の窓 世界史用語解説 授業と学習のヒントhttps://www.y-history.net/appendix/wh0801-004.html

*10:「特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだにあさくらしいせき):朝倉孝景の代、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠地を移し、斯波氏、甲斐(かい)氏を追放して越前国(えちぜんのくに)を平定しました。以後孝景(たかかげ)、氏景(うじかげ)、貞景(さだかげ)、孝景(たかかげ)、義景(よしかげ)と5代103年間にわたって越前国の中心として繁栄し、この間、京都や奈良の貴族・僧侶などの文化人が訪れ、北陸の小京都とも呼ばれました。しかし天下統一の戦いの中で1573年織田信長に敗れ、朝倉氏は滅び、城下町も焼き尽くされました。」福井市文化遺産ホームページ  http://fukuisan.jp/ja/asakura/

*11:「京都五山:京都五山(きょうとござん)とは、臨済宗の寺院の寺格で、別格とされる南禅寺とともに定められた京都にある五つの禅宗の寺院。鎌倉時代末期に創設されたが、その内訳が確定したのは室町時代、足利義満の代になってからである。」ウィキペディア フリー百科事典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E4%BA%94%E5%B1%B1

*12:「本草 (ほんぞう):わが国の漢方医学を含め、中国伝統医学は「本草」と呼ばれる分野において、薬物に関するさまざまな知識を集積してきた。」東洋医学の基礎知識-本草 真柳誠 / 東洋医学総合研究所 https://square.umin.ac.jp/mayanagi/paper04/honzo.html

*13:「ワクチンの誕生と発展:18世紀のヨーロッパでは、「牛痘にかかると天然痘にかからない」という民間伝承がありました。それに注目したジェンナーは、人体実験を繰り返して、牛痘患者の疱疹の漿液を傷口に塗りつける牛痘種痘法を確立しました。」予防接種にまつわる歴史(1) DOCTORASE 医学生がこれからの医療を考えるための情報誌 https://www.med.or.jp/doctor-ase/vol40/40page_id03main2.html

*14:「蘭学塾(らんがくじゅく): 江戸時代に西洋の学問を学ぶために私塾として広まった学問所。ヨーロッパの学問(蘭学)を初期は主に西洋医学と天文学、後に化学、物理学、西洋建築学等を学ぶ場所として使われ、その後の日本の近代化に大きな役割を果たした。」ウィキペディア フリー百科事典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%AD%E5%AD%A6%E5%A1%BE

*15: 『新版 漢方の歴史―中国・日本の伝統医学』2014年発行、小曽戸洋(こそと・ひろし)著、大修館書店、定価1,700円+税、ISBN978-4-469-23316-2 https://www.taishukan.co.jp/book/b197997.html

*16:「長崎養生所 (ながさきようじょうしょ):1861年(文久元年)9月に長崎で開院した江戸幕府(長崎奉行管轄)の病院・医療施設である。正式名称は「養生所」。養生所は日本最初の西洋式近代病院として知られる。幕府に招聘され医学教育を行ったオランダ人医師ポンペの進言により設置され、所内には医学生の教育を行う「医学所」が併設された。のち両者は「精得館」として統合された。明治期になって長崎府医学校病院と改称され、長崎医科大学(現 長崎大学医学部、および長崎大学病院)の源流となった。」ウィキペディア フリー百科事典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E9%A4%8A%E7%94%9F%E6%89%80

*17:「横浜軍陣病院 (よこはまぐんじんびょういん):ウィリスは新政府から要請を受けて、横浜の軍陣病院で戊辰戦争傷病兵の治療に当たることになった。新政府東海道総督府は、1868年6月(慶応4年閏4月)野毛町の旧漢文学校修文館(今の老松中学の地)に横浜軍陣病院を開いた。」ウィリアム・ウィリス―幕末・明治に多くの日本人を治療した英国人医師 ― Part 2 横浜歴史さろん https://yokohamasalon.link/willis2/

*18:「論文 兵部省軍医寮設置と大学東校」酒井 豊 http://chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400005545.pdf

*19:「 医学部誕生物語 第16話 私立医学校と「医家書生」~私立医学校の興亡 (1) ~」東大・京大・医学部・難関大学への現役合格を目指す受験生のための総合情報サイト  https://juken.y-sapix.com/articles/11372-3.html

*20:「漢方医学の教育については、2001年3月に文部科学省から公表された「医学教育モデル・コア・カリキュラム」の中で初めて『和漢薬を概説できる』という記載がなされ、その後2011年3月には『和漢薬、漢方薬の特徴や使用の現状について概説できる』と改訂され、日本の医学教育における卒業までの到達目標として、漢方に関する知識の習得が示されました。」設立のご挨拶 一般財団法人 日本漢方医学教育振興財団 https://jkme.or.jp/message.html

*21: 「漢方薬処方実態調査(定量)」日本漢方生薬製剤協会、報告書 2011年10月18日、 chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.nikkankyo.org/serv/pdf/jittaichousa2011.pdf

*22:「私と漢方との出会い 伴信太郎」リレーエッセイ 一般財団法人 日本漢方医学教育振興財団 https://jkme.or.jp/relay-ban01.html

参考資料

『新版 漢方の歴史―中国・日本の伝統医学』2014年発行、小曽戸洋(こそと・ひろし)著、大修館書店、定価1,700円+税、ISBN978-4-469-23316-2  https://www.taishukan.co.jp/book/b197997.html

『漢方医学-同病異治の哲学』2019年発行、渡辺賢治(わたなべ・けんじ)著、講談社、定価960円+税、ISBN978-4-06-516949-0  https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000324291

「日本医事史 抄」(この論文は、故 大阪市南医師会顧問 三好勝氏の執筆により、 21回の連載となりました。) https://www.osaka-minami-med.or.jp/ijisi/ijishi01.html

「漢方の歴史」 一般社団法人日本東洋医学会 https://www.jsom.or.jp/universally/story/note/02/04.html

「漢方とは」 一般社団法人漢方産業化推進研究会 https://kampo-promotion.jp/html/what.html

「漢方の歴史」 ツムラ https://www.tsumura.co.jp/kampo/history/index.html

以上

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